短い夏が終わろうとしている。まだ何もしていないのに。気づけば今月も真ん中を超えていた。まだ何もしていないのに。

 

ぼけっと過ごせばぼけっと時間は進む。とはいえ、人間ぼけっとすることも大事だろう。どうやら配分を間違えたらしい。つくづくダメなやつだと気付かされるものだ。

 

苦しい秋がくる。時が過ぎるのが怖い。自分だけが前に進めていない感覚。

光の集団は時の移ろいに並行しているのに、ぽつんと置いていかれた淡い光。闇の中であとは絶えるだけなのかもしれない。

線路のすぐそば、あるいは線路内に生えてきた雑草たちは何を思ってそこへ生えてきたのか。もちろん意思に関係なくそこで生を受けざるをえなかったことは分かっている。

 

轟音と激しい振動が疎らに続くのである、住環境として良いとは言えない。それでも雑草は生きるのだから本当に強い。名はあるだろうが知られていない雑草たち、見かけ上の名もない草たちは強いのだ。

我が家に犬がやってきた。なんたらテリアとかいう白い犬。やってきたといってもただ訪問者が連れてきたのだが。

 

いろいろなところへ歩く。興味の赴くままに。

 

いいなぁ、なんて見ながら思っていたが、犬には犬の苦労があるのだろう。人には分かり得ない。想像したところで想像の域を脱することはないのだから。それはヒトとヒトの間でも同じなのだろうな。分かりっこないのである。

ブーン、いや、プーンの方が適当だろう。畳に横になる僕の横を1匹の蚊が飛ぶ。お前はさっき僕の血を吸ったばかりだろう?まだ吸い足りないのだろうか。

 

晴れの日にはあれだけたくさんいる蚊だが、雨の日にはそれほど見ない。

 

今年は梅雨が長い。彼らはどこにいるのだろうか。雨は恵みをもたらすが災いももたらす送り物である。今年は送り物がたくさんのようだ。

遅くなった一学期の終わり。

 

「終わりははじまり」なんてよく言ったものだ。

これから長い夏が始まる、否、短い夏が始まる。例年通りの暑さを添えて。変わらないもの、変わるもの、気づかないうちに変わっていたもの。気づかなければよかったのかもしれない。知は人間の欲望のひとつだと思う。だが、知りすぎるのも良くないのかもしれない。

 

「中庸」をとることは存外簡単ではない。

意味もない夜長を経て迎えた朝。寝不足でまだ冴えないというか、今日はきっと冴えることのないであろう脳を引っ提げて電車に乗りこむ。もう見なれたコンクリート製の建造物。季節の移ろいを感じられる田んぼを抜けてからはそればかりである。辟易する。

 

またどうしようもない今日が始まる。

今日も定刻通りにやってきた鉄のカタマリは金属の擦れる音を立てて僕の前に止まる。また惰性の日常の舞台へ他人の仕事によって距離を縮めるのだ。

 

僕の定位置はボックス席の通路側、進行方向には背を向けている。いつから決まったのかも分からないがいつの間にか定位置と化している。

 

はじめはなれなかったこの揺れも何年もすれば慣れるもので、この微弱な揺れなど今ではゆりかごの如き心地良ささえ醸し出す。

 

もう見知った顔を乗せて鉄のカタマリは目的地へと進む。